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大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想』星海社新書

 大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミストシオランの思想』星海社新書
 

 

 だいぶ前に、なにかで話題になっていたのを見かけて、先々月ぐらいに読んだ。シオランは、名前は聞いたことがあったような気がする、という程度。

 一通り読んだ(シオランについての)感想というか印象というかは、悪くはないけどよくはない、かつ、靴を履いたまま足の裏を掻いているようなもどかしさ。これは言葉を選んでいる。

 なんだってそんな印象になったのかと考えるに、要素は似通っているところがあるヴェイユを先に知っているからだろうというのが一つあるだろう。似通っているのに、これほど真逆を向いているというのはおもしろい。

 

 ジューベールもヴェイユシオランも断片を大量に残しているが、体系として整った文章はヴェイユだけで、そのあたりの違いが取り扱い方の違いにもなるのだろう。

 ウニベルシタスに『異端者シオラン』という評伝がある。

 

 

プラカード

 三島についてはあまり詳しくないものの、これに関しては三島は間違いなくそう考えるだろうなと納得できる。

 

 

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現代日本語に一番絶望したのは安保闘争のとき。「民主主義を守れ」というプラカード、その一人一人が言っている「民主主義」という意味がみんな違う。言葉がこんなに多義的に使われたら、文学なんて成り立たない。

 

三島由紀夫『告白 三島由紀夫未公開インタビュー』講談社文庫、2019、p78

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 キーワードにしてもシーンにしても、作り話のような出来過ぎの感があるが、まあ、一つのわかりやすい頂点として話題にしたのだろう。

 

 

卒展と池袋東武

 乃木坂の新美は展示の会場としてわりといい環境だと思うので結構好いている。

 さて五美大の卒展。制作者をメモし忘れてしまったのがあるので、こういうのがあった、よろしよろし、みたいな羅列で。たぶん順路通り。

 

 壁と、自分ですいた和紙大判4枚とで魚というか水中というかを描いたもの。離れて観るととてもぼんやりしていて雰囲気がある。

 磁器人形がいた。かわいい。

 秋から冬あたりの色づいて落ちる葉と木々。

 暗い水面を飛ぶ白鷺。

 二十四節季を花で描いたもの。

 胴体の螺旋状本体部分を可能な限り一本木から彫った(と思う)もの。でかいのにやたらなめらかなので、人によって品のいいオブジェとみるか、rpgのボスみたいと思うかでわかれそう。

 公園で子供が乗ってあそぶ馬とかパンダが、ししとうだかピーマンだかのやつ。

 (デキリコをもっとシンプルに一般受けよくしたような)3連作版画。三個目の焜炉を見ているのが好き。

 欧州風路地の、影になっている場所からの視点で光の通っているところを含む絵。と、もう一枚、建物に囲まれた公園と池。ともう一枚。

 黄色い葉の森の(こだま(もののけ姫的な))。精霊とか妖精とかよりは、人間。髪に動きがあるから人間を表象(でいいはず)。

 商業製品のキャラクター風、およびグッズ量産。やっぱり数はわかりやすく強い。

 パステルカラーで、猫だか兎だかやら山やら目玉焼きやらが描かれたもの。

 根が水没している(枯れ)木、と周辺の草。葉の量と濃淡がいい。

 雪山、森、木々。これも濃淡がいい。

 夕闇を飛ぶ鳥、水面。

 切り絵のブドウの木、鳥。

 

 というわけで、濃淡や彩度の扱いが巧い絵は、最初の印象がまず整いやすいので作品として強いというのと、また、形(フォルム)がよい描き方をされているのもやはり強いという2点あたりをあらためて感じた。

 

 東武催事場、伝統工芸品。

 焼物のマグカップはよいのだけど、まあだからこそ壊れたときが悲しいので、あまり買う気になれない。

 墨。型木を文鎮にというのは、まあ、おもしろいのだけれども、どうせなら型は型として欲しいというか、文鎮として使うなら使い勝手がというか。

 筆。狸(だったかな)の中長峰がいい感じ。

 

 

 

 

 

 やれこれからの人生設計だの、コロナ渦中、コロナ後を見据えて自己研鑽をだの、他者を当てに出来ない以上、自分を磨こうだのと、オンラインサロンが姦しい。

 

 それぞれに(思惑はどうであれ)頑張っているのではあろうが、頑張りが実に浅い。猛省していただきたい。

紙片2片

 

宗教はある種の純粋さ、潔癖さ、ひたむきさを要求する。それが現実に発露する場合に排除や禁欲やあるいは数量問答が起こる。

 

 

ヴェイユの、首尾一貫しない一つの虚言が首尾一貫した虚言に敗れたにすぎない、という文章からは、私たちがいる虚言は容易に崩れ去るし、相手次第ではたやすく崩されうるということを汲み取るべきなのだろうとここのところ思っている。その場合において相手方の大小を問うのは意味がない(なぜなら一貫している相手方は真であり正であり実であるから)。有効な虚言が新たにもう一つ私たちに必要という、ただそれだけのこと。