あらすじを読む

 古谷利裕『虚構世界は何故必要か SFアニメ「超」考察』勁草書房

 

 

 本書におけるSFの定義はゆるゆるなので身構えなくてもいいし、あらすじや設定の概要も充分なので、竹槍で突撃しても心配はいりません。

 興味を引かれるアニメが目次に載っていれば、その部分だけでも読んでみるのはありかと思われます。http://www.keisoshobo.co.jp/book/b383340.html

ヨハネ福音書の話とGoogleドキュメントを利用した校訂作業と

 かいつまんで説明すると、現行のヨハネ福音書には原著者(に近い人々)の文以外に、第二著者(に近い人々)の文が混在しており、それらの取り扱いやすいテキストデータを作った。という話です。

 付加部分のメモを片手に読むこともできますが、まあどうせなら取っ払ったデータと、現行データと、そこに区分記号を入れてしまおうと、ちまちま作業していました。

 

 福音書本体についてのより詳しいことは田川建三新約聖書 訳と註』作品社(第5巻がヨハネ福音書)を参照してください。腑分けして(といってもそんなにごちゃごちゃと混ざっているわけではないのでただ読む分には面倒は少ないです)読むと、私が思うに、田川さんが述べているとおり、原著者の意図するところはとてもシンプルですし、付加された部分を同じ人物(たち)が書いたとするには無理があります。

 原著者の考えは好きですよ、私は。

 

 データの作り方。

 専用のスキャン装置があれば万々歳ですが、ある物で代用。

 1.『訳と註5巻』。 2.譜面台2つ。 3.ipad。(要するに、撮影機材を固定させておきたい)

 撮った画像をGoogleドキュメントに投げ込んでテキスト化。この段階でも、まあ、そこそこのものは出てきます。技術革新。

 とはいえ、そこそこのものなのでひとつずつ改めていく必要があります。普通の文章でしたらかなりの変換といえますが、そこは聖書、節番号という厄介なものがあり、ほぼ全滅で、一つずつ入れました。

 ありがちな問題としては、拗音、促音、濁音、半濁音が安定しない。イエスヨハネ、パリサイ、ガリラヤ、他多数。節番号もつらいですが、これらの確認もなかなかつらい。日本語の文字体系のつらいところです。

 

 ちゃんと変換されない箇所のほとんどがその2系統です。ですから、普通の文章であれば(ちょっとは使いにくいにしても)充分な機能です。

 

 残りで印象に残っているのは、

・汝が女になる

・種を蒔けないで詩になる

・冒涜(旧字)や躓くあたりの密度になると変換できない

 あたりでしょうか。三つ目はしょうがないにしても、上二つがサンプル数の問題なのか、処理時間制限の問題なのかは気になるところです。 

 

 

 

 

 

 

本メモ

 ブログを分けていましたが、そこまでわけなくともいいかなと近頃思い始めましたのでこちらで。

 

・石田光規『孤立不安社会』勁草書房

 多摩市のコミュニティセンターの例が3件紹介されていまして、だいたいそんな感じでしょうなという認識とかけ離れてはいなかったので、改める必要がなさそうでとりあえず良し。

 

・鈴木聖子『<雅楽>の誕生』春秋社

 本筋から離れた話題としては、全音階オルガンの話とか、寺田寅彦と音楽の話がある。

 

 

ocrの威力

 技術というか情報処理方法というかの進歩はめざましいもので、近頃は、およそ印刷書体であればまずまずの抽出変換ができるようになったので、ありがたいことです。投げ込んでおけば、出してくれる。そこまでやってもらえるんだから、整えるぐらいは喜んでやりますし、そこがおもしろかったりもする。

 

メモ

 特にヴェイユを読んでいて全か無かだとか、0か1かというようなことを考えていると、以下の例示がとても有効だと私は思うのです。

 

  信仰はある種の純粋さ、潔癖さ、ひたむきさを要求する。内面で完結しているあいだはともかく、これらが外に発露すると、排他、禁欲、(数や質の)競争が起こる。

  

   ここのところ頭痛が長引いていたので、ヴェイユもたいへんだったろうなと、この点だけははっきりわかります。

   

  

根をもつこと

  昔読んだ本を読み返すにちょうどいい頃合いかもしれないので、いろいろと読み返しています。

  その中の一山にある長野まゆみについても書きたいところですが、今日はヴェイユ

 

  行動については破天荒と分類してもよさそうな逸話がいくつもある(あるというか大勢が残したというか)のがまずはすさまじいところです。実践の人だったのでしょう。だからといって半ば自殺みたいなかたちで死ななくてもと思ってしまうのは、まあ、後世の人間のわがままなのでしょう。

  絶筆の根をもつことなどは論考とか論文というよりも、読み方によっては断末魔とか自省録に近い気もする。

感覚

 太陽の光、とくに午前中という指定をつけると、なんというかもうほとんど夏っぽい光だという印象を持ちます。実際は違うにしても、目と脳の調整がなかなかうまくいかない。つい先日に妙な寒の戻りがあったのも、拍車をかけている気がします。