すみすりのかい
墨とか硯とか紙とかがたくさんあるので、ただもくもくと墨を磨ったり、そのあとに三段階に薄めて比べたりする会を、知り合いあたりに声をかけたいなあと思ってはいたのですが、しかしまあ五ヶ月もどうにもらなずに過ぎてしまいました。
神学と平行線公理
神学を使って(だしにして)話をするのが楽なのでそのまま話を続けると、なんだってそこまで「存在=善」が成立するのかとか、善のみで(中心軸にして)考察を進めるのかということへの奥には、それ自体がいろいろと暗示めいたものが垣間見える。
まず、「存在=善」がなぜ堅いのかというのは、神学が神を前提としているものだからと言ってしまえばそれまでではあるが、もうちょっと根気強くいけば、創世記冒頭に、神はこれを見てよしとされたという記述があるから。枠として、そもそもそういうもの。
めちゃくちゃだとか、そんな非論理的なとか、2020年の現在人からすればいろいろあるだろうけれども、ひとまずそこを認めると、(善かどうかはともかくとして)眼前にあるものを丸受けすることが可能になる。丸受けせざるをえないとも言える。
これは、たとえどんなにしょうもなく愚かで馬鹿で邪悪な事象があったとしても、まず受けざるをえなくなる。そしてそこから開始する。価値判断は後であって、先立たない。
宗教や神だから、なんか変な感じがする人も多いのだろうと私は思うのだけれども、前提という点で言えば、平行線公理と同じようなものだろうとも思う。場所が神学か数学かという話。
稲垣良典『トマス・アクィナス『神学大全』』
北川忠彦『世阿弥』
わかりやすく決めつけると、花伝書(風姿花伝)に主軸を置かない世阿弥本で、世阿弥外部から世阿弥をあぶり出そうとしている本。
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これまでの世阿弥論は、すべて世阿弥そのものに焦点をあてて論じられている。それに対し、室町期の能の主流は観阿弥――宮増――観世小次郎の線にあって、世阿弥は傍流的位置にあったという前提のもとに、その生涯と業績を論じてみたのが本書である。
p221 あとがき
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現代でも通用しつつ、当時(の大衆)からすればずいぶんと時代を先取りしすぎていて訳がわからなかっただろうと思われるのが鬼について。
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前にも述べたように、同じく能の鬼と言っても砕動風鬼と力動風鬼がある。砕動風とは形は鬼であるが心は人、力動風とは形心ともに鬼という違いがある。世阿弥が鬼を砕動に限ったのは、鬼というものを人間の執心によって生ずるものと解したところによる。
p199
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六条御息所などが砕動風に当たる。地獄の鬼などの鬼らしい鬼が力動風。言いたいことはわかるが、大衆芸能に多く求められるのは、やはりわかりやすい方の鬼なので、世阿弥が傍流というのもよくわかる。
認知構造
先日の、ユダを演じた役者を殴るという話(『誤解としての芸術』)と、坊主と袈裟と、愛屋及烏(『雪が白いとき~』p59)とは、根は同じようなところにあるはずなので、これらで人間はおもしろいと感じるか、それとも、めんどくさいと感じるかで体調を測りたいという気になる。
今? めんどくさい。
『雪が白いとき~』『狼と香辛料』
ジャンルものとして現れてしまうものはどうやってつきあえばいいものなのか。
陸秋槎『雪が白いとき、かつそのときに限り』早川書房
ミステリー。特に、現代のミステリー(の流儀、作法、型、枠)。クリスティーはすごかったのだなと実感する。
読み終わったあとに検索してみたら、どなたかが「エモ全振り作品」との感想を書いていて、まあ、その通りだと思う。
ライトノベル。
springlogのなにか1冊を前に読んだ時も思ったものの、なんと言い表せばいいものかとあぐねいていて、良し悪しではなく、かったるい文章というが妥当かもしれないと思いつく。全帯域を使って圧縮していない情報をベタ送信しているような感じ。ライトノベルはそういうものなのだ。
すこし前に、本が家にたくさんあっても、子どもが読める平易なものがないと子どもの読解力が云々というのが流れていたのも思い出した。そして、コロナウイルスのあれこれで、児童書やらマンガやらがオンラインで無料解放されるようになったのを見ていろいろと思いもする。曲芸じみた文章や言葉の連なりは、地続きであってこそのものなのだろう。