文体ととっつきやすさ

 数日前に山月記についてあれこれとありました。現在の日本では、おおむね漢文の知識や接触が減じているので、その点からもいろいろと思うところのある人がいるようです。というわけで文体の話。

 引用を一つ。

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 最後に顔真卿を見よう。真卿が卒して後二十年の頃、求道のため入宋した空海弘法大師)の、帰朝後の揮毫に係る『風信帖』や『灌頂記』に顔法が明らかに投影していることは、識者が等しく指摘するところである。しかしこれは空海一人のことに止まってそれを継ぐものなく、その影響は久しくこれを見なかったのであるが、江戸時代に至り、その書に注目する人物段々現れたが、その忘るべからざるは貫名海屋であろう。もとより海屋が学んだもの、王羲之・猪遂良を主とし、元明の名家よりわが国の空海に及び、その上に立って独自の書風を樹立しているのであるが、顔真卿よりも取るべきをよく取っている。しかし真卿を慕うこと最も深く、その小字は勿論大字に至るまで、すべて真卿の『争坐位帖』を彷彿せしめるは佐久間象山である。そして明治以降に於いては、顔法を終生守った人物に長三洲があり、この書風は一大勢力をなした。

  ――浅見絅斎(近藤啓吾、訳注)『靖献遺言』講談社学術文庫、p170

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 わからなくはないけれども、しかし、それにしてもところどころひっかかる、もっといえば古風。そう感じる人が多いだろうと思います。使用語彙や助詞の使い方が効いてくるととりあえずは言えそうです。

 作りを見やすくするために一文を加工すると「もとよりA、Bとし、CよりDに及び、Eしているのであるが、Fよりも取るべきをよく取っている。」となり、現在の口語とは離れているのがよくわかります。

 詳しく考え始めるときわめてややこしいことになるので、これでおさめましょう。

 

 京都で野堀さんとの『文体練習』を並べた時に、値札に「実践レーモン・クノー」と書いておきました。文体練習かクノーの名前か、どちらに通りがかった人がひかれたのかはなかなか難しいところです。

 別の機会に有村さんと、「ロブグリエよりもレーモンクノーの方がとっつきやすいですよね」と話したこともあります。