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神学と平行線公理

 神学を使って(だしにして)話をするのが楽なのでそのまま話を続けると、なんだってそこまで「存在=善」が成立するのかとか、善のみで(中心軸にして)考察を進めるのかということへの奥には、それ自体がいろいろと暗示めいたものが垣間見える。

 

 まず、「存在=善」がなぜ堅いのかというのは、神学が神を前提としているものだからと言ってしまえばそれまでではあるが、もうちょっと根気強くいけば、創世記冒頭に、神はこれを見てよしとされたという記述があるから。枠として、そもそもそういうもの。

 めちゃくちゃだとか、そんな非論理的なとか、2020年の現在人からすればいろいろあるだろうけれども、ひとまずそこを認めると、(善かどうかはともかくとして)眼前にあるものを丸受けすることが可能になる。丸受けせざるをえないとも言える。

 これは、たとえどんなにしょうもなく愚かで馬鹿で邪悪な事象があったとしても、まず受けざるをえなくなる。そしてそこから開始する。価値判断は後であって、先立たない。

 

 宗教や神だから、なんか変な感じがする人も多いのだろうと私は思うのだけれども、前提という点で言えば、平行線公理と同じようなものだろうとも思う。場所が神学か数学かという話。