護教、愛国、ヴィーガン

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 確かに、西洋中世の哲学は、日本においては馴染みのうすいキリスト教カトリック神学の本丸であるばかりでなく、煩瑣な概念の過剰、無味乾燥の極地である。そこでは伝統的見解が羅列され、繰り返しが多く、明確な主張もなく、結論となると、場合分けがなされ、<かくかくであれば正しく、しかじかであれば誤っている>というような議論に満ちあふれている。しかも、キリスト教人間性を抑圧した時代、魔女狩りと異端弾圧とペストの時代が西洋中世であったとなれば、その時代に興味を持つのは、護教的信念に溢れたカトリック教徒、中世崇拝のロマン主義者、愚か者、天使主義者のいずれかということになりそうだ。

 山内志朗『新版 天使の記号学 小さな中世哲学入門』岩波現代文庫 p5-6

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 田川さんの訳註を読んでいても、護教だの教条だの無謬だのという語が踊っていたのが記憶に新しいところです。

 で、まったく別の本ではありますが、引用したところでまた護教です。

 護教とははたしてなにを護っているのかと思ってしまいました。

 

 なにか似たような感覚に覚えがあると考えるに、元々はそんな狭い意味に限定される語ではなかったのに、なんやかんやで指し示すところが凝り固まってきてしまったようなものかなと思います。

 イスラム教徒とかフェミニズムとか愛国とか保守とか。最近だとヴィーガン。だいたい悪い印象の方向に凝っていく。

 

 みんな刺激のあるもの(情報)ばかり摂取するから、そんなことになってしまうんだというようなことを言うのは簡単ですが、治水ならぬ治情報は今の時代なかなか難しい。