仮名序マッチポンプ

 久しぶりに読んだので備忘録。

 

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在原業平はその心あまりて言葉たらず しぼめる花の色なくてにほひ残れるがごとし

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 だとか、あるいは

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大伴黒主はそのさまいやし いはばたき木負へる山人の花の蔭に休めるがごとし

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 だとか、

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このほかの人々その名きこゆる野辺におふる葛の這ひひろごり林に繁き木の葉のごとくに多かれど歌とのみ思ひてそのさま知らぬなるべし

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 と、まあすさまじい記述です。

 修辞であって、ようするに「今までやまと歌は、六歌仙の時代もあったけれど、下火、傍流、卑俗だった。しかし、この帝の御代に万葉以後の歌集が編纂されたのである」と文化事業の意義を強調している。(ちょっとまとめすぎか)

 それにしてもちょっと強烈すぎやしないか。

 

 

品詞から時間へ

 品詞が変わると意味が変わる単語だとか、対象(目的)に応じて動詞を選ぶ必要がある(この動詞は人間を目的語に取れない、とか)だとか、そういう世界に時折ひたっていますと、当該言語の文化や社会がなんとなく想像できたりするような瞬間がたまにあり、そういうところが楽しいところの一つだとは言えましょう。滅多にないですが。

 

 漢文漢詩は、もともとは数ある一言語であったものの、とくに日本文化という文脈に絡むと、なんか別の独立した言語のように扱った方が楽なのかもしれない(だいたいが訓読に起因すると思う)という、これまた不思議な位置の代物でございます。

 漢詩の平仄など、もはやたいていの日本人には意味不明なものですが、漱石はわかっていた形跡があるので、100年という時間はおそろしいですね。

 文化とか言葉とかは変わっていくものです。

 

 

 

品詞問題

 「命令の令が入っている!」

 「この令はその意味じゃねぇ!」

  というのは、もうすでに数えきれぬほど繰り返されていると思います。

 それはそれとして、vやnでの意味とaでの意味の乖離(のように思えるもの)は、どういう理由で生じたのかが、わたし気になります。

 

映画「帰ってきたヒトラー」

 見る機会を逃し続けていたらたいぶ時間が経ってしまいました。

 

 一番の妙手はドキュメントルポルタージュ風の作りにした点だと思うのです。小説はヒトラーによる一人称なので、文字では良くても、映像と音がくっついてくる以上、ブラックユーモアにするためには視点を変えた方がいいのでしょう。そしてそれは妥当だと納得できます。

 何回もあるインタビューもそうですが、番組作りの打合せのシーンなどは、たぶん照明もそう見えるように寄せて撮っている(はず)。リアクターや町の人々を出すという方向からも、やりやすいつくりでしょう。

 現実に沿った政府要人たちを登場(引用)する点からも、そのほうがいい。

 珍道中にはポルカが流れるし、ブルーノガンツ演へのオマージュも仕込んで笑いのポイントもばっちり。ミス・クレマイヤーの造形は完璧であり、アウシュビッツパックツアー星1はずるい、あの流れとタイミングで出すのはずるい。

 

文字、名前、字体

 名前なり名字なりというのは、知っていればそれまでだし知らなければ推測はできてもどうにもならないというものでございます。固有名問題。

 世の中にはそんなにのりかずさんやかずのりさんが、同じ漢字でいるのかという声をきき、さらには、「あの漢字はのりと読むのか」というのも聞きました。

 身近なところや関わりのあるところにいなければ読み方は知らなくてもしょうがないとしか言えないのでそちらはともかく。

 固有名でないところではレイばかりで、となると日本語……やまとことばノリの意味するところと同じ意の漢字、たぶんみことのりとかそのあたりであろうというアタリはつけられたものの確信がないので、ちょっと待ってと漢辞海を引いて確かめる。

 そんな一日。

  

 文字の下部がマなのか真下に伸ばすのかみたいな騒動がないことを願いたい。