漢詩はちょっとすぐには出てこない

 
 先週は乃木坂で書の展示を見てきました。

 

 なんというか、いろいろ考えると難しい――難しいというか、うまいことはまらずにむず痒いというのが、毎度展示を見に行って思うことではあります。難儀。

 

 「水深魚極楽」というのがあって、字面はおもしろいけれども、これ、どっから取ってきた? というのがあって(おおむね離れて眺め、ケース展示の仮名と篆刻だけちゃんと寄って見るという感じだったので)、調べてみたら杜甫で、「林茂鳥知帰」と続く。そういえばそんなのがありましたな。形としてはペアなのだが、半分を省くのはありでしょう。対でちゃんと書いていたら注目したかどうか。打率半減というところでしょうか。

 

 物販で書道具屋の人とあれこれ話す。せっかくだからと買う。

 

 

おいしいラーメン

 

伴名練『なめらかな世界と、その敵』早川書房


 感想を一言にすると、おいしいラーメン。


 いわゆるネタバレを避けるための緩衝として期待値の話を。
 世間の評価を参照すると、どうにも期待値が過剰エラーを返すということが『三体』で明瞭になってきたので、だいぶ刈り込みはしたものの、まだ甘いらしい。言語というか表現はインフレしやすいとは思っているものの、自分だけならともかく、他人に調整をかけるのは実務として無理があるので、めんどくさいなぁと思う。
 『三体』の時は、おもしろいにもかかわらず、期待値が青天井過ぎたがためにその落差に困惑し、今回はおいしいラーメンはラーメンがおいしいのではなくスープがおいしいのではないだろうかというような疑念に迷い込む程度で済んだ。それなりにうまくいったようではある。
 なんでこんなことをあーだこーだしているのかというと、まだこの後に『息吹』『黄金列車』『三体Ⅱ』があるから。間違えると、勝手にダメージを受けることになるので、できることはしておきたい。
 なにもなしに選んだ物を読んでばちこーんと衝撃を受けるのが一番いいのかもしれない。

 

 収録順に。
・「なめらかな世界と、その敵」
 そもそもにおいて、この題とポパーとの関連が気になっていたというのがある。題だけについていえば、ポパーからの直ではなく間にもう一つ挟まっているというのは事前に調べた。
 冒頭から、なんか変なことやってんねぇという感じ。マコトが出現するまでで、だいたいの様式のようなものには馴染める。変なことにせよわかりやすい。
 読み終わってから検索したところでは、読み込めばこの段階でも記述から構造がわかるようになっているということなので、軽く流してしまったのはもったいなかったかもしれない。

 

・「ゼロ年代の臨界点」
 最後の最後にあるフジの言葉(p68)がとてもすばらしい。

 

・「美亜羽へ贈る拳銃」
 古式ゆかしいラブロマンス、などとすると怒られるだろうか。でも要件は足りていると思う。

 「なめらか~」も「美亜羽」も、後の「アイアンメイデン」も「ひかりより~」も、異質、孤立、疎外、不親和、順応あたりの因子が充ち満ちているので、相性がいいのだろう。(SFを利用して)虚構においてそのあたりを際立たせることができれば、それはじつに有効。

 p132の1行目はどうなんだろうとは思った。別の表現を使える人であると判断しているので、それでなおこれでないといけないという理由。


・「ホーリーアイアンメイデン」
 慈愛に満ちた死刑。
 穏やかすぎる気もするが、このぐらいがちょうどいいのかもしれない。


・「シンギュラリティ・ソヴィエト」
 みんな大好きソ連


・「ひかりより速く、ゆるやかに」
 2700年必要だというのは、まことに説得力のある言い分だと私は思う。絶対値が問題なのではなく、つながりが切れる寸前の呆れかえるような距離ということ。
 博奕を打つところで、馬鹿だなぁと思う。この馬鹿だなぁは、青春を是認する時に目を細めたくなる馬鹿だなぁである。
 文明尺度がそれだというのは、まあ、お話の都合だ。

 

 
 短篇集なのでしょうがないとはいえ、不確定の言いさしを一冊で何回も読むとめんどくさくなるというのは覚えておきたい。全部書いて戦うのが理想。そう簡単に思い描いたとおりに出来れば苦労はしない。だからあがかざるを得ない。

 

 

 

アナログ

 ちょうど涼しい日で、明日から使うことになるだろうと朝顔を描いておきました。

 顔彩系統なので、筆、筆洗、皿2枚ですんでいるものの、棒とか水干とか岩とか使いはじめたらその比ではないので、つくづく片付けが面倒だと思います。

 

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図書館

 ようやく図書館がまともに使えるようになってきたので、あまたある困ったことの一つはよろしくなったのであるが、それはそれとして滞っていたという事実は変わらないので、やはりまぁ腹立たしいことではある。

すみすりのかい

 墨とか硯とか紙とかがたくさんあるので、ただもくもくと墨を磨ったり、そのあとに三段階に薄めて比べたりする会を、知り合いあたりに声をかけたいなあと思ってはいたのですが、しかしまあ五ヶ月もどうにもらなずに過ぎてしまいました。

神学と平行線公理

 神学を使って(だしにして)話をするのが楽なのでそのまま話を続けると、なんだってそこまで「存在=善」が成立するのかとか、善のみで(中心軸にして)考察を進めるのかということへの奥には、それ自体がいろいろと暗示めいたものが垣間見える。

 

 まず、「存在=善」がなぜ堅いのかというのは、神学が神を前提としているものだからと言ってしまえばそれまでではあるが、もうちょっと根気強くいけば、創世記冒頭に、神はこれを見てよしとされたという記述があるから。枠として、そもそもそういうもの。

 めちゃくちゃだとか、そんな非論理的なとか、2020年の現在人からすればいろいろあるだろうけれども、ひとまずそこを認めると、(善かどうかはともかくとして)眼前にあるものを丸受けすることが可能になる。丸受けせざるをえないとも言える。

 これは、たとえどんなにしょうもなく愚かで馬鹿で邪悪な事象があったとしても、まず受けざるをえなくなる。そしてそこから開始する。価値判断は後であって、先立たない。

 

 宗教や神だから、なんか変な感じがする人も多いのだろうと私は思うのだけれども、前提という点で言えば、平行線公理と同じようなものだろうとも思う。場所が神学か数学かという話。