稲垣良典『トマス・アクィナス『神学大全』』
北川忠彦『世阿弥』
わかりやすく決めつけると、花伝書(風姿花伝)に主軸を置かない世阿弥本で、世阿弥外部から世阿弥をあぶり出そうとしている本。
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これまでの世阿弥論は、すべて世阿弥そのものに焦点をあてて論じられている。それに対し、室町期の能の主流は観阿弥――宮増――観世小次郎の線にあって、世阿弥は傍流的位置にあったという前提のもとに、その生涯と業績を論じてみたのが本書である。
p221 あとがき
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現代でも通用しつつ、当時(の大衆)からすればずいぶんと時代を先取りしすぎていて訳がわからなかっただろうと思われるのが鬼について。
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前にも述べたように、同じく能の鬼と言っても砕動風鬼と力動風鬼がある。砕動風とは形は鬼であるが心は人、力動風とは形心ともに鬼という違いがある。世阿弥が鬼を砕動に限ったのは、鬼というものを人間の執心によって生ずるものと解したところによる。
p199
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六条御息所などが砕動風に当たる。地獄の鬼などの鬼らしい鬼が力動風。言いたいことはわかるが、大衆芸能に多く求められるのは、やはりわかりやすい方の鬼なので、世阿弥が傍流というのもよくわかる。
認知構造
先日の、ユダを演じた役者を殴るという話(『誤解としての芸術』)と、坊主と袈裟と、愛屋及烏(『雪が白いとき~』p59)とは、根は同じようなところにあるはずなので、これらで人間はおもしろいと感じるか、それとも、めんどくさいと感じるかで体調を測りたいという気になる。
今? めんどくさい。
『雪が白いとき~』『狼と香辛料』
ジャンルものとして現れてしまうものはどうやってつきあえばいいものなのか。
陸秋槎『雪が白いとき、かつそのときに限り』早川書房
ミステリー。特に、現代のミステリー(の流儀、作法、型、枠)。クリスティーはすごかったのだなと実感する。
読み終わったあとに検索してみたら、どなたかが「エモ全振り作品」との感想を書いていて、まあ、その通りだと思う。
ライトノベル。
springlogのなにか1冊を前に読んだ時も思ったものの、なんと言い表せばいいものかとあぐねいていて、良し悪しではなく、かったるい文章というが妥当かもしれないと思いつく。全帯域を使って圧縮していない情報をベタ送信しているような感じ。ライトノベルはそういうものなのだ。
すこし前に、本が家にたくさんあっても、子どもが読める平易なものがないと子どもの読解力が云々というのが流れていたのも思い出した。そして、コロナウイルスのあれこれで、児童書やらマンガやらがオンラインで無料解放されるようになったのを見ていろいろと思いもする。曲芸じみた文章や言葉の連なりは、地続きであってこそのものなのだろう。
ミシェル・テヴォー『誤解としての芸術 アール・ブリュットと現代アート』ミネルヴァ書房
ミシェル・テヴォー『誤解としての芸術 アール・ブリュットと現代アート』ミネルヴァ書房
まったくもって世間は「誤解」だらけでござるとぼやきたくなる時もある。どこの領域でもそれは同じでしょう、たぶん。
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実際、モリエールの同時代人は彼の創造した人物の不道徳性を彼自身のものとして非難した。中世の聖史劇[宗教劇]の観客が、劇の上演が終わったあと、ユダを演じた役者につかみかかったのと同じことである(一七世紀には道徳を弄ぶのはまだ御法度であった!)
p8
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誤解という語がやや強すぎるなら、「シュレーディンガーの量子箱のなかの猫」(p94表記)問題のようなイメージに置き換えるのもありかもしれない。確定と不確定。
170ページほどの分量ではあるものの、内容は密にして丁寧なので、読み応えがあります。
本には誤植が含まれるのコーナー。
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p88 新
逆に新の即興家はもっとも狡猾かつ迅速な計算をする者であるということを意味するのである。
p176 強土
醜さが美しさに変わる表現の強土の境目が存在するのである。
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