神学と平行線公理

 神学を使って(だしにして)話をするのが楽なのでそのまま話を続けると、なんだってそこまで「存在=善」が成立するのかとか、善のみで(中心軸にして)考察を進めるのかということへの奥には、それ自体がいろいろと暗示めいたものが垣間見える。

 

 まず、「存在=善」がなぜ堅いのかというのは、神学が神を前提としているものだからと言ってしまえばそれまでではあるが、もうちょっと根気強くいけば、創世記冒頭に、神はこれを見てよしとされたという記述があるから。枠として、そもそもそういうもの。

 めちゃくちゃだとか、そんな非論理的なとか、2020年の現在人からすればいろいろあるだろうけれども、ひとまずそこを認めると、(善かどうかはともかくとして)眼前にあるものを丸受けすることが可能になる。丸受けせざるをえないとも言える。

 これは、たとえどんなにしょうもなく愚かで馬鹿で邪悪な事象があったとしても、まず受けざるをえなくなる。そしてそこから開始する。価値判断は後であって、先立たない。

 

 宗教や神だから、なんか変な感じがする人も多いのだろうと私は思うのだけれども、前提という点で言えば、平行線公理と同じようなものだろうとも思う。場所が神学か数学かという話。

 

稲垣良典『トマス・アクィナス『神学大全』』

稲垣良典トマス・アクィナス神学大全』』講談社学術文庫

 

 第五章が「「悪」の問題」というもので、誤解を招くような言い方をすると、じつに神学らしい思考の仕方が垣間見られます。適切な使い方をすれば、とてもいい方法です。

 

 存在は善であり、善の欠如が悪であり、故に、存在の欠如が悪である。悪は虚無。というところから善についての検討を深めて悪というものを解釈する章。そんなかんじです。肝心なのは、善と悪とは等位ではないというところで、等位とみなすのは善悪二元論であるというところでしょう。これは、キリスト教と相性の悪いグノーシス主義マニ教の立場で、神学としてはあくまでも善一点のみから悪を取り扱う。これをごちゃまぜにすると泥縄。

 

 

北川忠彦『世阿弥』


北川忠彦世阿弥講談社学術文庫

 

 わかりやすく決めつけると、花伝書風姿花伝)に主軸を置かない世阿弥本で、世阿弥外部から世阿弥をあぶり出そうとしている本。

 

>>
これまでの世阿弥論は、すべて世阿弥そのものに焦点をあてて論じられている。それに対し、室町期の能の主流は観阿弥――宮増――観世小次郎の線にあって、世阿弥は傍流的位置にあったという前提のもとに、その生涯と業績を論じてみたのが本書である。

p221 あとがき
<<

 

 現代でも通用しつつ、当時(の大衆)からすればずいぶんと時代を先取りしすぎていて訳がわからなかっただろうと思われるのが鬼について。

 

>>
 前にも述べたように、同じく能の鬼と言っても砕動風鬼と力動風鬼がある。砕動風とは形は鬼であるが心は人、力動風とは形心ともに鬼という違いがある。世阿弥が鬼を砕動に限ったのは、鬼というものを人間の執心によって生ずるものと解したところによる。

p199
<<

 

 六条御息所などが砕動風に当たる。地獄の鬼などの鬼らしい鬼が力動風。言いたいことはわかるが、大衆芸能に多く求められるのは、やはりわかりやすい方の鬼なので、世阿弥が傍流というのもよくわかる。

 

 

 

『俺の歯の話』

 バレリア・ルイセリ『俺の歯の話』白水社

 

 各章(厳密には章ではなく「書」)の名前だとか各章冒頭に引用されている文章(ソシュールの領域めいたもの)だとかを読むに、話の流れ以外にもなにか意図するところがあるのだろうとは思っていて、5から6に移った時にはとりあえず「なるほど」。7の年表も作成者を確認しつつ「ほほう」。

 作者あとがきで成立の経緯。外国ではだいぶ前からありふれたものだったとはいえ、近頃はこういうのが本当に増えた。

 訳者あとがきで「固有名」というキーワードを得る。それで括れば、たしかに話がはやい。だからこそ(章題にあるような怪しいレトリックを駆使する)オークショニアが主題になる。