認知構造

 先日の、ユダを演じた役者を殴るという話(『誤解としての芸術』)と、坊主と袈裟と、愛屋及烏(『雪が白いとき~』p59)とは、根は同じようなところにあるはずなので、これらで人間はおもしろいと感じるか、それとも、めんどくさいと感じるかで体調を測りたいという気になる。
 

 今? めんどくさい。

 

 

『雪が白いとき~』『狼と香辛料』

 


 ジャンルものとして現れてしまうものはどうやってつきあえばいいものなのか。


陸秋槎『雪が白いとき、かつそのときに限り』早川書房

 ミステリー。特に、現代のミステリー(の流儀、作法、型、枠)。クリスティーはすごかったのだなと実感する。
 読み終わったあとに検索してみたら、どなたかが「エモ全振り作品」との感想を書いていて、まあ、その通りだと思う。

 

支倉凍砂狼と香辛料XXI Spring LogIV』

 ライトノベル
 springlogのなにか1冊を前に読んだ時も思ったものの、なんと言い表せばいいものかとあぐねいていて、良し悪しではなく、かったるい文章というが妥当かもしれないと思いつく。全帯域を使って圧縮していない情報をベタ送信しているような感じ。ライトノベルはそういうものなのだ。
 すこし前に、本が家にたくさんあっても、子どもが読める平易なものがないと子どもの読解力が云々というのが流れていたのも思い出した。そして、コロナウイルスのあれこれで、児童書やらマンガやらがオンラインで無料解放されるようになったのを見ていろいろと思いもする。曲芸じみた文章や言葉の連なりは、地続きであってこそのものなのだろう。

リズ・グリーン『占星術ユング心理学 ユング思想の起源としての占星術と魔術』原書房

 

 

 ざっと読んで、考えたいと思ったのは次の2点。

 

 リミナル(な領域、もの、こと)。

 オカルトは、まあ、オカルトであるにせよ、それにはそれ相応の意味というか役割というか理由がある。ということ。

 

ミシェル・テヴォー『誤解としての芸術 アール・ブリュットと現代アート』ミネルヴァ書房

 

ミシェル・テヴォー『誤解としての芸術 アール・ブリュット現代アートミネルヴァ書房


 まったくもって世間は「誤解」だらけでござるとぼやきたくなる時もある。どこの領域でもそれは同じでしょう、たぶん。


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 実際、モリエールの同時代人は彼の創造した人物の不道徳性を彼自身のものとして非難した。中世の聖史劇[宗教劇]の観客が、劇の上演が終わったあと、ユダを演じた役者につかみかかったのと同じことである(一七世紀には道徳を弄ぶのはまだ御法度であった!)
p8
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 誤解という語がやや強すぎるなら、「シュレーディンガーの量子箱のなかの猫」(p94表記)問題のようなイメージに置き換えるのもありかもしれない。確定と不確定。
 170ページほどの分量ではあるものの、内容は密にして丁寧なので、読み応えがあります。

 

 

 

 本には誤植が含まれるのコーナー。
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p88 新
 逆に新の即興家はもっとも狡猾かつ迅速な計算をする者であるということを意味するのである。

p176 強土
醜さが美しさに変わる表現の強土の境目が存在するのである。
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劉慈欣『三体』早川書房

劉慈欣『三体』早川書房

 

 話題になっているので読んでみました。

 煽り文句がずいぶんとすごい。大森さんの訳者あとがきから拾うと、「現代SFの歴史を大きく塗り変えた一冊」「超弩級の本格SF」「驚くべき蛮勇の産物」などなど。なんなんだこれは。

 そして、すごいすごいと話題になるにもかかわらず、読み終わってもそれほどピンとこないのが困った。期待するところが高すぎたか、それとも、SFに馴染みがないからか。

エステル・デュフロ『貧困と闘う知 教育、医療、金融、ガバナンス』みすず書房

 

 これらの記述を見かけたから読んだというわけではないものの、どちらもそうだよねとなる。同時に、こういう話になるとヴェイユがそこそこの割合で出てくるのはどうなんだろうなとも思う。

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ちなみに、デュフロ氏の母は小児科医、父は有名な数学者である。デュフロ氏は、自分が内戦下のチャドではなく、パリでプロテスタント左派の中産階級の家庭に生まれたこと、その事実がまったくの偶然にすぎないことに、子どもの頃から責任を感じていたのだという。彼女のまっすぐな献身の情熱は、著作『根をもつこと』で知られているフランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユの思想を想起させる。(p185)

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本書には良心的社会改革者の「上から目線」、すなわち「あなたたちに必要なことは、私たちのほうがよく知っています」というテクノクラート的な態度を感じさせる部分も多い。しかし、デュフロ氏の構え方が非常に興味深く思えるのは、常に「現場」とともにあろうとする献身と粘り強さ、そして実験と試行錯誤を繰り返しながら真実に到達しようとする求道者的な情熱が、社会科学者の冷徹なロジックと分かちがたく結びついているところである。(p195-196)

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 内容は、新薬の臨床試験のようなランダム化比較試験を社会科学の分野でも活用しようとする場合どうなるかというのが副題の4分野について書かれている。

 

福島直恭『訓読と漢語の歴史[ものがたり]』花鳥社

 学習院女子大の研究刊行助成で出ている本。その割には、かなり一般向け記述。

 次の4点を細かく砕いて丁寧に記述している本と総括していいはず。ちょっと丁寧すぎるとも言える。

 

・文字は言語ではない。

・翻訳と訓読は異なる。

・訓読文は(古代漢語ではなく)日本語(の1バリエーション)である。

・明治期の言文一致は、書き言葉を話し言葉に寄せた(あるいは、融合)というよりは、書記言語の(それまでの書記言語であった)訓読文から(現在まで続く)標準語への置換である。

 

 三つ目までは順繰りに読み進めれば納得できるはずで、最後の、書記言語の転換についても、それ自体は問題ない。ただ、欲を言えばその過程とか思考とかについてが緩いので、そこの詳しいところを読みたかった。……まあ、それを詳述したら同じ分量もう1冊となるでしょうから、無茶な要求ではある。