映画

 三島憲一ベンヤミン 破壊・収集・記憶』 岩波現代文庫、2019

 

 思うに、よく言われるベンヤミンのわからなさやわかりづらさは、神秘主義方面ほかの影響で、言ってしまえばなじみがないことに起因するのではないでしょうか。良し悪しや有意かどうかはともかくとして、なんとなくこのましいとは感じています、私は。

 

 神秘主義という語を使わざるをえないので使いますが、神秘(主義)を言語化できるなら世の中にこれほど嬉しいことはありません。言語で固定できるのなら、そもそも神秘ではない。

 先日のこれ(https://edafude.hatenablog.jp/entry/2019/06/07/211631)もそうですが、関連するところのあれもこれも、揃いも揃って根が深すぎて扱いきるのは難しい。

 わかりやすさの入口として、副題の「収集」という語が使いやすい。なんでもいいから十や二十、がらくたでもいいから並べたててみる。その配列や全体から見えるものが神秘。書いていてあまりにも乱暴で粗雑なたとえだと思いますが、まあ、だからどこまで掘っても根の末端をすべて把握できないということもわかってもらえるでしょう。

 枝葉も根も含めすべてとつながっており感覚を共有しているなどという主張が始まったら、とりあえず神がかりかという判断をされるでしょうから。

 

 

 

 

 

虚言

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首尾一貫しない一つの虚言が首尾一貫した虚言に敗れたにすぎないのだ。

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 文脈をまるっと投げ捨ててもこの一節はとても引用したい便利なものだと思います。そして、なにかある度に引きたい。

 誰が書いたのかというとヴェイユで、冷徹と諦観が混ざってもなお簡潔な一節で、じつにヴェイユらしい。

 

 

 『根をもつこと』(山崎庸一郎訳)春秋社、p319

ふたつのきもち

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文字に拘束された現実の教会や司祭よりも、聖霊によって鼓吹された人々を指導者とすることが異端にならないはずがない。聖書に記された御言を学ばずに、聖霊の導きのもとに、直接的に神に至ろうとすることは、狂信、熱狂主義につながるのだ。中世に於いても、狂信(英enthusiasm;独Schwarmerei)と聖霊主義が同義だったことは覚えておくべきだろう。狂信とは一七世紀において、進歩的知識人の最も憎むものだった。

山内志朗『新版 天使の記号学』p176

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 引き続き。

 ここの前にはルターが話題にあり、まあそういう話の流れです。

 

 

 たとえば、後半をわざと引いてこないであれこれ言うこともできるわけで、そういうことをするとすれば、わりと見境のない言葉がここにならんでいることでしょう。

 

 それはそれとしても、やはりなんだかなぁとも思うのです。

 

 

論理学届くにんじん

 もちろん「論理学と毒にんじん」が元々意図していたものです。うっかり変換してしまってくすっとしました。

 

 古典哲学を必修に、というような趣旨の文言を先日見かけて、気持ちはわかるけれどもそれはとてもまずいだろうし、それを言うなら記号論理学(初級)だろうなぁと思いました。

 幅があるので難しいところですが、多かれ少なかれソクラテス論法には触れることになるでしょう。そして、あれはかじった程度では、とても議論には役立たないか、あるいは有害か、よくて劇薬でしょう。ですので、整備されている論理学の方がいいと思います。そして、こちらも数学アレルギーで拒絶される未来が見える。

 

 補。ソクラテス論法の有効な転用法は佐藤亜紀『小説のストラテジー』を参照。

 

 

 

護教、愛国、ヴィーガン

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 確かに、西洋中世の哲学は、日本においては馴染みのうすいキリスト教カトリック神学の本丸であるばかりでなく、煩瑣な概念の過剰、無味乾燥の極地である。そこでは伝統的見解が羅列され、繰り返しが多く、明確な主張もなく、結論となると、場合分けがなされ、<かくかくであれば正しく、しかじかであれば誤っている>というような議論に満ちあふれている。しかも、キリスト教人間性を抑圧した時代、魔女狩りと異端弾圧とペストの時代が西洋中世であったとなれば、その時代に興味を持つのは、護教的信念に溢れたカトリック教徒、中世崇拝のロマン主義者、愚か者、天使主義者のいずれかということになりそうだ。

 山内志朗『新版 天使の記号学 小さな中世哲学入門』岩波現代文庫 p5-6

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 田川さんの訳註を読んでいても、護教だの教条だの無謬だのという語が踊っていたのが記憶に新しいところです。

 で、まったく別の本ではありますが、引用したところでまた護教です。

 護教とははたしてなにを護っているのかと思ってしまいました。

 

 なにか似たような感覚に覚えがあると考えるに、元々はそんな狭い意味に限定される語ではなかったのに、なんやかんやで指し示すところが凝り固まってきてしまったようなものかなと思います。

 イスラム教徒とかフェミニズムとか愛国とか保守とか。最近だとヴィーガン。だいたい悪い印象の方向に凝っていく。

 

 みんな刺激のあるもの(情報)ばかり摂取するから、そんなことになってしまうんだというようなことを言うのは簡単ですが、治水ならぬ治情報は今の時代なかなか難しい。